好きだから30

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「え、そうですが」
 いきなりファーストネームを呼ばれ、佐々木は怪訝な面持ちで答えた。
「俺だよ、みのり、手塚稔」
「稔さん? あれ、今日本にいてるん?」
「いてるも何も、俺、この春からここのセンセ」
「え、ほんま?」
 手塚稔は久乃の息子で佐々木より二つ上、確かどこかの病院の外科医だったが国境なき医師団に同行してずっと日本を離れていたはずだ。
 どうした、風邪でも引いたかと聞かれ、淑子が足を怪我したと言うと、診てやるから来いと言う。
 直子にはもう帰るように言ったが、心配だから付き添うと聞かない。
 仕方なく佐々木は淑子を車の後部座席に乗せ、直子が一緒に乗り込むと、エンジンをかけた。
「こりゃ、おばさん、ちょっとひどい捻挫だな。骨は折れてないが」
 手塚はレントゲン写真を見ながら言った。
「折れてないんですね、よかったぁ!」
 直子がはあっと大きな溜息をついた。 
 外科医に向いていそうな大柄な男は、かなり伸びた無精髭に手入れのされていない硬い髪は中途半端に伸び、医者でなければ直子にとってはあまり近づきたくない人種に分類されるだろう。
 稔とかいうより、髭もじゃの熊五郎って感じ? おばさん、とかって、馴れ馴れしい。
 骨折もないと聞くと、ようやく直子はこの胡散臭そうな医者を凝視する。
「しかしまあ、ちょっとの間は、なるべく足を使わない方がいいな。腫れが引くまで風呂もなしな」
「足使わんでどないして生活するんです?」
 謙虚という言葉は怪我をしても淑子の中にはないらしい。
「いやあ、まあ、ケンケンするとか?」
 手塚のふざけた物言いにみるみる淑子の顔が険しくなるのを見て、佐々木は慌てる。
「あ、ヘルパーさんとか探すし、今夜のところは何とか俺が手伝うから」
「あたしが今夜ついてようか? だってお手洗いだって不便でしょ?」
 直子はそう言ってくれるのだが、オフィスのアシスタントだけでも世話になっている直子にそんなことまで頼める筋合いではない。
「いや、直ちゃん、こんな時間までいてくれただけでも悪いし」
「何なら今晩だけでも泊ってく? 近所のナースさんに頼んで来てもらうから。明日になったら車椅子とか貸すし、そのナースさん、手が足りない時助っ人にきてもらうんだけど、しばらくお宅にいてもらうように話してみようか?」
 手塚の提案は非常に有難かった。
 このまま家に帰っても歩くにもままならないわけで、淑子は渋々、一晩の入院を承諾した。
 ややあって、細身だがきびきびとした六十絡みの女性がやってきた。
 石川と名乗ったその看護師は、手塚が訳を話すと、住み込みの淑子のサポートを快く引き受けてくれた。
 手塚が入院用のパジャマも貸してくれるというので、石川は車椅子を持ってくると淑子を乗せてエレベーターで二階にある病室へと向かう。
 佐々木と直子は後ろからついて行ったのだが、あくまでも気丈な淑子は「早う帰って後片付けしなさい」と佐々木に申し渡した。
「直子さんには遅うまでお世話かけましたね、周平、直子さんをちゃんとお送りしなさい」
「あ、はい、もちろん……」
「それじゃ、先生、お大事になさってください」
 淑子を石川に託して二人が病室を辞すると、手塚が階下で待っていた。

 


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