花のふる日は12

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 工藤にそんな古びた感情を呼び起こしたのは昨今注目を浴びている新進ミステリー作家の一冊の本だった。
 桜の絵を表紙にした『花のふる日は』の作者、それが小林千雪だ。
 たかだか同じ名前なだけだ、そう思いつつも手に取らないではいられなかったその小説は、どうせろくな話ではないだろうとたかをくくっていた工藤の心を戦慄させた。
 ミステリー作家にしておくにはもったいないような文体の美しさにとどまらず、描かれた情景の鮮やかさ、人の心の機微をもさりげなく散りばめている。
 推理小説としての評価は、トリックが三流だ、三文探偵小説だなどと叩かれてはいるが、何より、犯した罪を告白し、桜の木の根元に横たわる女というラストシーンは映像を見るように幾度も工藤の脳裏を占領し、さらにかつての恋人のデスマスクさえ思い起こさせた。
 読んでからずっと気になってはいた。
 だが、当の作者が学生時代の恩師である宮島教授のもとにいるという、偶然といえば偶然でしかないだろう事実が、なかなか工藤を躊躇させていた。
 小林千雪といえば、とある事件で捜査一課に協力して名探偵などと囃し立てられた頃からともに話題に上り、超イケメンセレブなどと騒がれた綾小路京助とは正反対で、その小林千雪なる名前からは程遠い見てくれという噂だ。
 だが工藤にしてみれば、映像にしたいのは原作の方で、作者の見てくれなど何の関係もない。
 男で、むしろダサいオヤジならば、案外、何も考えずに話もできるに違いない。
 鬼の工藤と呼ばれた男が、たかだか研究室を訪ねることをそこまで二の足を踏んでいるなどと、業界関係者には想像し難い話だろう。
 ただし、作者には会えたもののきっぱり断られた。
 手を離れたら自分の作品ではなくなると、冴えない風貌の割りにははっきりした物言いで。
 ……ったく、この時期、仕事は停滞気味だわ、イラつくことばかりだ。
 ハンドルを握る手にまた力が入る。
 気がつくと、桜から逃げるように軽井沢の別荘に着いていた。
 この辺りはまだ雪が残り、春の気配は遠い。
 別荘地の奥まった広い敷地に立つ古びたレンガ造りの屋敷は、もともと工藤の曾祖父のものだった。
 子供の頃はお化け屋敷と呼んでいたが、曾祖父母亡き後工藤の身の回りの世話をしていた大塚平造が今はここに住み着いて、庭の木や花を手入れし、あちこちを修繕したお陰で、居心地のよい別荘になっている。
「社長、いらっしゃるのは明日かと思ってましたが」
 車の音に気づいて、短い白髪頭の足取りは矍鑠とした老人が出迎えた。
 平造である。
 ちょうど軽井沢でロケがあり、工藤は翌日の朝ここに来る予定だった。
「……お客様ですか?」
 平造は工藤が助手席から眠っている千雪を降ろして、肩に担ぎ上げたのを見て怪訝そうな顔で尋ねた。
「ああ、酔い潰れてる。上の部屋、いいか?」
「はい、何か召し上がりますか?」
「いや、グラスと水、用意してくれ」
「わかりました」
 いつも工藤が使っている部屋へ千雪を運び、ベッドに降ろすと、コートやスニーカーを脱がせてやった。
 それでも起きる気配はない。
 起きれば水を飲ませようと思ったのだが、翌日には酔っている間のことはさっぱり忘れているという手合いだろう。
 平造が水とグラスを持ってくると、工藤はコートやジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、サイドボードからマイヤーズを取り出して飲み、ようやく息をついた。

 


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